shoushouteiのブログ

落語を語ってます!

落語雑感!千両みかんー蜜柑色々

  落語「千両みかん」は、1個千両、1房百両で買って若旦那の病気を治すという噺ですが、江戸時代みかんは、旬の時期(秋から冬)いくらぐらいしたんでしょうか。

   貞享2年(1685年)に紀伊国屋文左衛門が大儲けしたという話がありますが、当時、江戸では鍛冶屋さんが信仰した金山神社の「ふいご祭り」に屋根からみかんをばら撒くという風習があり、高値で売れたとのこと。その当時の廻船が200石(30t)から300石(45t)で1,500両から2,000両で取引されたんではないかといわれていますので、俗に2篭で1両が相場。1個で千円ですから、高いと言えば高い。千両はしませんが。これだけでは、大金持ちは無理ですが、文左衛門は、実は寛永寺造営の材木を運んで財をなしたのが、真相のようです。

 そのみかんは、どこから日本に入ってきたか、諸説はあると思いますが、一説には、日本書紀(720年)に11代垂仁天皇の御代に、新羅国(朝鮮)から帰化した子孫で田道間守は病気静養の天皇の勅命により、遥か南方の常世国(中国大陸南岸地帯?)に旅立った。
 それは、その国に「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」という果物が年中実っており、それを食べると延命長寿。その果物を採りに行き苦節10年。田道間守は南方の海上常世国を探し求め、ついに香菓「橘」を得て帰国する。
 しかし、 都に着いた時すでに帝は崩御されていた。田道間守は帝の存命中に使命を果たせなかったことを残念に思い、御陵に「橘入手」の報告をし、手に入れた「常世の国」の気候風土に似ている土地を探し求め、熊野街道沿いの下津町橘本(旧海草郡加茂村)に橘を植えた。この「橘」が紀州蜜柑の始まりであるとして、田道間守は”蜜柑の始祖”として今も崇拝されている。「橘本神社」

なお、他の地域でも似た伝説あり。

   もう一つは、番頭さんも「夏みかん」を買えばいいのにと思った諸兄に、「夏みかん」は、最初「ナツダイダイ」といって、18世紀に西本チョウという女性が青海島(山口県長門市)で拾ったのが起源だそうで、萩だけで栽培され全国流通は、明治時代になってから、明治17年に大阪の商人が「夏みかん」と改名してからだそうです。

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