落語雑感!紀州
御三家とは、
落語「紀州」には、「御三家から直るという事が決まっておりまして」という件と橋、舟木、西郷という死語の擽りもありますが、本当にそうなのでしょうか?
征夷大将軍は、右大臣、源氏長者という位を天皇陛下から与えられた。
これになるためには、大納言(定員内)か権大納言(定員枠外)が必要条件であり、江戸の初期には、将軍家の世継ぎ、尾張徳川家、紀伊徳川家、駿河家(2代徳川秀忠の三男忠長、鷹狩で小姓を殺害し改易)が大納言家であった。駿河家以外にも、3代将軍家光の子であった分家の館林家(綱吉が5代将軍になった。)及び甲府家(綱豊が家宣と改名して6代将軍になった。)
しかし、駿河忠長が改易し、館林の綱吉が5代将軍に、続いて甲府綱豊が6代将軍に就いて将軍家を継ぎ、これらの徳川家が消滅し結果的に水戸家が格上げされて尾張・紀伊・水戸の3つの徳川家を「御三家」と呼ぶことが定着。ただし、水戸家は、中納言のため、大納言ではないので右大臣(征夷大将軍)にはなれない。御三家は、徳川性を名乗った。
なお、将軍家から直接の分家で高い家格を有したものには、家康次男(秀忠の兄)の結城秀康(越前松平家)や(家光の弟)保科正之を祖とする(会津松平家)もあり、それらは御家門と呼ばれたが、徳川姓の使用は許されなかった。
落語雑感!!木津の勘助
浪花侠客伝のうち、木津の勘助は、講釈や浪曲ネタで、YouTubeでは、笑福亭鶴光師匠やお弟子の里光師匠が、落語としてあげている。
この噺に出て来る豪商「淀屋」は、実在で材木問屋だけでなく、魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立したり、また
米価の安定のため米市を設立したり、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握っていたとの事。淀屋橋は、お嬢さんのお稽古事のために掛けたのではなく本当は、米市の利便性からだそうです。
また、木津の勘助さんは、噺の中では、頭のいいお百姓さんになってますが、本当は、中村勘助と言って1586年に相模の国(神奈川県)足柄山で生まれ、豊臣秀吉に仕え堤防工事や新田開発に尽くした人物との事。この噺の舞台であります徳川時代初期には、木津川の工事や大阪の発展、大飢饉の時に大阪城の備蓄米放出を願い出て聞き入れられずお蔵破りをして流罪になるなど立派な人物だったので、このような逸話が残ったのではないかな。
最後に帛紗を忘れた鉄眼寺ですが、黄檗宗慈雲山瑞龍寺というのが、本当で鉄眼和尚の寺という事で一般には、鉄眼寺と呼ばれているそうです。
落語雑感!「阿武松」④勧進相撲
「文化12年12月、麹町10丁目の法恩寺の相撲で初めて番付に載り、序の口裾から4枚目、小緑常吉、翌13年2月芝西久保八幡の番付では、序二段裾から24枚目、100日余りの間に番付を60数枚飛び超えた古今に稀な大出世」
相撲興行の時には、入り口に立札や番付に「蒙御免(ごめんこうむる)」と書いてある。これは、幕府公認の相撲興行という意味である。なぜ相撲に許可が必要になったかというと、江戸市中では方々で相撲が行われていて、勝ち負けのケンカが絶えなかった。ギャンブル性が強かった。お金がかかっているとしたら容易に想像できる。相撲禁止令も出したが効果もいまひとつだった。そこで、勧進相撲(かんじんずもう)というかたちで寺社奉行所の許可制になった。寄進をすすめ、寺社建立や橋架の費用捻出するのが本来の目的である。
勧進相撲は、江戸では富岡八幡宮、浅草大護院(蔵前神社)、芝神明など、寺社奉行所管轄である寺社の境内で行われたが、後に本所回向院に集中した。
さて、「麹町10丁目の法恩寺」は、あるかというと、法恩寺は、明徳2年(1391年)麹町9丁目に創建された日蓮宗寺院で明暦3年(1657年)に現在地の旧四谷南寺町に移転しました。阿武松が力士になった1815年3月には、既に移転しているので、あり得ないことになります。
墨田区に平河山法恩寺というお寺があり、相撲とご縁が深いので、これと混ざったのでは、新説ですが。
こちらのお寺は、野見宿禰神社から東にだいたい一駅分歩いたあたり、蔵前橋通りに南面して大鳥居がある。これを踏んまえてスカイツリーが伸びている形。 こちらは太田道灌開基と伝えられる大寺で、長禄2年(1458)江戸城築城時のことというから古い古い。 平河山というのは、平川村(皇居平川門のあたりという)に建立したことに因むそうだ。現在地に移ってからも300年余り経っている。
次に芝西久保八幡ですが、こちらは同じところに現存してます。日比谷線神谷町駅から東京タワー方面に5分歩いた右側、縁起によれば、
寛弘年中(1004~12)に、源頼信(多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。
太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された(諸説あり慶長5年とも)。
享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。また、その間にあっても明和3年(1770)・文化12年(1815)・文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、阿武松緑之助も相撲を取っている記録があるとの事。こちらは、珍しく本当。
深川八幡の横綱碑は、ありました。
落語雑感!「阿武松」③板橋宿の立花屋
江戸から一番近い宿というと江戸四宿となります。品川に新宿(内藤新宿)、板橋に千住というのが、江戸四宿。
板橋宿は日本橋からはじまる中山道最初の宿です。平尾宿(ひらおじゅく)・仲宿(なかじゅく)・上宿(かみじゅく)に分かれ、2キロメートル弱に旅籠屋や町屋が軒をつらねていました。
板橋宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠54、家数573。
板橋の地名は、石神井川にかかった「板橋」という橋に由来し、『源平盛衰記』や『義経記』に登場するそうです。
立花屋というのがあったかどうかはわかりませんが、多分、
5代橘屋圓蔵が5代圓生、
6代橘屋圓蔵が6代圓生という前名の亭号を善人の名前に使ったのではないかなあ。因みに7代からは三遊亭から系統が別になりましたが、それまでは、三遊亭の名跡だったそうです。
板橋は、農業の盛んな土地。
大正7年(1918)に刊行した『北豊島郡誌』には、これらの地域の特徴が次のように記されています。
志村
東京市の北西3里(約12Km)圏内に位置しており、帝都の一部に組み込まれつつあった。
しかしまだ当時の産業の中心は農業。土地の8割強は耕地であり、人口の4割強は農業に従事していた。
生産していたものは米や麦などの主要作物よりも、大消費地である東京市から近いというメリットを活かして、蔬菜類(野菜のこと)が中心だった。
板橋町
「高燥にして住居に佳く、農業に良い」土地柄であり、住宅地と農村とが混在していた。
とのこと。江戸時代は、更に農業中心経済だったでしょう。
でもどうして能登に帰るのに、板橋宿なんでしょう。素朴な疑問で旧街道地図を見ると多分、中仙道から北國路へ抜けるルートか。談志師匠は、川崎宿に置き換えて演じていますが、東海道からのルートだと滋賀県のところまで行かないと北國路に出られないので、遠回りのような気がします。どうせ嘘だからというところでしょうか?