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落語雑感!「阿武松」④勧進相撲

「文化12年12月、麹町10丁目の法恩寺の相撲で初めて番付に載り、序の口裾から4枚目、小緑常吉、翌13年2月芝西久保八幡の番付では、序二段裾から24枚目、100日余りの間に番付を60数枚飛び超えた古今に稀な大出世」

相撲興行の時には、入り口に立札や番付に「蒙御免(ごめんこうむる)」と書いてある。これは、幕府公認の相撲興行という意味である。なぜ相撲に許可が必要になったかというと、江戸市中では方々で相撲が行われていて、勝ち負けのケンカが絶えなかった。ギャンブル性が強かった。お金がかかっているとしたら容易に想像できる。相撲禁止令も出したが効果もいまひとつだった。そこで、勧進相撲(かんじんずもう)というかたちで寺社奉行所の許可制になった。寄進をすすめ、寺社建立や橋架の費用捻出するのが本来の目的である。

勧進相撲は、江戸では富岡八幡宮、浅草大護院(蔵前神社)、芝神明など、寺社奉行所管轄である寺社の境内で行われたが、後に本所回向院に集中した。

さて、「麹町10丁目の法恩寺」は、あるかというと、法恩寺は、明徳2年(1391年)麹町9丁目に創建された日蓮宗寺院で明暦3年(1657年)に現在地の旧四谷南寺町に移転しました。阿武松が力士になった1815年3月には、既に移転しているので、あり得ないことになります。

墨田区に平河山法恩寺というお寺があり、相撲とご縁が深いので、これと混ざったのでは、新説ですが。

こちらのお寺は、野見宿禰神社から東にだいたい一駅分歩いたあたり、蔵前橋通りに南面して大鳥居がある。これを踏んまえてスカイツリーが伸びている形。 こちらは太田道灌開基と伝えられる大寺で、長禄2年(1458)江戸城築城時のことというから古い古い。 平河山というのは、平川村(皇居平川門のあたりという)に建立したことに因むそうだ。現在地に移ってからも300年余り経っている。

16代横綱西の海の墓、14代式守伊之助の墓があります。

次に芝西久保八幡ですが、こちらは同じところに現存してます。日比谷線神谷町駅から東京タワー方面に5分歩いた右側、縁起によれば、
寛弘年中(1004~12)に、源頼信多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。

太田道灌江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された(諸説あり慶長5年とも)。
享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。また、その間にあっても明和3年(1770)・文化12年(1815)・文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、阿武松緑之助も相撲を取っている記録があるとの事。こちらは、珍しく本当。

深川八幡の横綱碑は、ありました。

 

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