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落語雑感!「阿武松」③板橋宿の立花屋

江戸から一番近い宿というと江戸四宿となります。品川に新宿(内藤新宿)、板橋に千住というのが、江戸四宿。

板橋宿は日本橋からはじまる中山道最初の宿です。平尾宿(ひらおじゅく)・仲宿(なかじゅく)・上宿(かみじゅく)に分かれ、2キロメートル弱に旅籠屋や町屋が軒をつらねていました。

板橋宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠54、家数573。

板橋の地名は、石神井川にかかった「板橋」という橋に由来し、『源平盛衰記』や『義経記』に登場するそうです。

立花屋というのがあったかどうかはわかりませんが、多分、

初代立花屋圓蔵が2代圓生

5代橘屋圓蔵が5代圓生

6代橘屋圓蔵が6代圓生という前名の亭号を善人の名前に使ったのではないかなあ。因みに7代からは三遊亭から系統が別になりましたが、それまでは、三遊亭の名跡だったそうです。

板橋は、農業の盛んな土地。

大正7年(1918)に刊行した『北豊島郡誌』には、これらの地域の特徴が次のように記されています。

志村

東京市の北西3里(約12Km)圏内に位置しており、帝都の一部に組み込まれつつあった。
しかしまだ当時の産業の中心は農業。土地の8割強は耕地であり、人口の4割強は農業に従事していた。
生産していたものは米や麦などの主要作物よりも、大消費地である東京市から近いというメリットを活かして、蔬菜類(野菜のこと)が中心だった。

板橋町

「高燥にして住居に佳く、農業に良い」土地柄であり、住宅地と農村とが混在していた。

とのこと。江戸時代は、更に農業中心経済だったでしょう。

でもどうして能登に帰るのに、板橋宿なんでしょう。素朴な疑問で旧街道地図を見ると多分、中仙道から北國路へ抜けるルートか。談志師匠は、川崎宿に置き換えて演じていますが、東海道からのルートだと滋賀県のところまで行かないと北國路に出られないので、遠回りのような気がします。どうせ嘘だからというところでしょうか?