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落語雑感!「阿武松」①京橋の観世新道

落語「阿武松」には、気になる地名が出て来ます。「黄金餅」の言い立てほどではありませんが、これを解明していくシリーズでお送りします。まず、「京橋の観世新道に武隈文右衛門という幕の中軸〜」から始まりますが、嘉永6年近吾堂版の切絵図に「新両替町2丁目と弓町の間をクワンセシンミチ」という俗称が記録されています。古地図アプリで確認すると同じところが蛤新道と表示されていました。

今の地図では、銀座一丁目駅の5番出口を出た辺りを昔は、弓町といったそうです。多分、銀座ガス燈通りが、その新道の今の名前だろうと思います。

弓町の真ん中に観世屋敷があったとのこと、江戸時代は、能楽は、保護されていて、扶持と屋敷が与えられていたとのこと。同じ銀座の8丁目には金春屋敷もあったようで、今でも金春通りという名前が残っています。何故、弓町というかというと徳川家康に追随してきた、弓箭(ゆみや)職人が宝暦7年(1757)に願い出て町名が認められたとの事

因みに武隈文右衛門は、寛政10年、滋賀県八日市市生まれ、最高位大関、本名安村弥三郎、所属部屋「阿武松部屋」?

小柳春五郎→小柳長吉?→手柄山繁右衛門→湖東山文右衛門→武隈文右衛門

つまり、この武隈は、阿武松の弟子で、5代武隈を継承した人物。

武隈の名跡は、初代は、竹熊弥太八に始まり、2代は不明。3代武隈は、住ノ井甚助が継ぎ部屋経営を始めたが、死去により所属力士は粂川部屋(後雷部屋に名称変更)に移籍した。その後移籍組の元十両常盤嵜礒吉が部屋を再興し4代武隈となって、阿武松を育てた。その阿武松の弟子の手柄山繁右衛門が5代武隈を継承した。阿武松は、落語とは、違いずっと武隈部屋にいた。

ちょと落語の嘘でした。

観世新道の武隈部屋は、実は弟子てました。